monolog

スタック・オーバーフロー・エンジニアのなかにしゆうが思うことを書いていきます。

起業するより難しい、結婚する『決断力』

3年ちょっと前、ぼくは起業して会社を作った。そしたら、もう本当に、今まで何回繰り返されたかわからないほど繰り返されてきた友人との会話がこれ。

友人「会社作るなんて、すごいね!」
ぼく「いや、会社作るなんて紙1枚出せば誰でもできるから」
友人「いや、その『決断力』がすごい!」

もはやテンプレートになっている。「誰でもできる」というのは謙遜しているわけではなく、心の底から「誰でもできる」と思っている。だって、うまくいかなくなったり飽きたりしたらやめて会社員に戻ったらええやん。起業する前の状態にはいつでも戻れる。そうなると、今もこれからも、起業で失うものは何もない。

なんなら、結婚の方がすごいと思う。だって、「結婚したけど飽きたからやめるわ」なんておそらく社会通念上許されないし、子供ができちゃったらもう自分たちの問題でもなくなってしまう。飽きたりうまくいかなくてもなんとか頑張らねばならない圧倒的コミットが求められる。起業なんかよりも遥かに重い決断になることは明らか。

年齢的に周りの友人がどんどん結婚している率が上がってきて、「みんななんでそんな簡単に決断できちゃうんやろ? その『決断力』がすごい!」と思っていた。

そこで、ぼくの価値観を大きく揺るがす2つの出会いがあった。

1つめは本。

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

この本は、嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えの続編。対話形式なのでいい感じに引用が難しいのでぼくの理解した要約をしておく(この結論に至るまでに、「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」の8割ぐらいの合計1.8冊分の議論がベースになって導き出された結論なので、興味のある方はぜひ2冊セットで手に取ってみてほしい)。

  • 「運命の人」なんていない
    • 異性と関係を深めようと思えば、声をかけたり勇気が求められる
    • その勇気のない人が、あれこれ理由を並べ、「この人ではない」「もっと理想的な、もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」と、その人を退け、「運命の人」という幻想にすがりつく。
  • 愛とは「決断」である
    • 結婚とは愛する対象を選ぶことではなく、自分の生き方を選ぶこと
    • 決意さえしてしまえば、究極的にはいかなる人をも愛することができる

つまり、「運命の人にすがりついて目の前の人を愛さないのではなく、愛する勇気を持て」と。

2つめ。キリスト教系の道に入っている友人。

東京の友人だが、地元の兵庫県三田市(さんだし)でちょいちょい仕事があるらしく、三田で会ったときの話。三田の日帰り温泉、三田温泉熊野の郷の露天風呂につかりながら話した。

その友人は、結婚相手を決めるのに、宗教で用意されたシステムを使った。宗教のエラい人が信者の中から指名し、「お前とお前は結婚しろ」と言われたら、結婚するというシステム(指名されたら拒否権なし)。まあ、同じ宗教の道を歩んでいるわけだし、ベースにある価値観が同じなんだから、「結婚してから価値観が合わない」というようなことは避けられるとは思う。でも一方で、無宗教で日本人のぼくにはなかなか衝撃的なシステムだった。

そんな彼が(全裸で)言った言葉。

「最初は結婚相手のことを正直そんなにかわいいとは思わなかったんだけど、結婚生活が長くなるにつれて、どんどんかわいく思えるようになってきたんだよね。(全裸)」

この本と友人の言葉との出会いは、「どういう人と結婚するのがいいんだろう?」とか考えて条件をリストアップするといったような愚行に及んでいたぼくにはなかなか衝撃的だった。「つまり、結婚相手ってほんまに誰でもよくて、自分がこの人と幸せになると決心さえできればそれでええんちゃうか?」と。自分がこの人と幸せになると決心する、その『決断力』のみが問題なのではないかと。

そんな出会いのタイミングで、昔からちょいちょいぼくと遊んでくれてたひとと、結婚を意識するようになり、結婚する決意に至った。おとといぐらいから風邪っぽいので若干不安ではあるが、とうとう明日結婚式を挙げる。

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この記事は、結婚式前夜、妻は実家に泊まると言い残して出ていってしまった風邪の症状も完全には癒えぬ一人の夜に書かれた。